ユーラシアの静かなダイナミズムと海の日本

静かなダイナミズム

 「『静かなダイナミズム』には、どのような意味が込められているのですか」。
 ダイナミズムがどうして静かなのか? 奇異に感じられた読者からよく訊かれます。
 「時空の変化に音はありません」。
 歴史の内なるエネルギーには音がない。およそ歴史のダイナミズムと呼ぶべき現象は、あるとき音もなく静かにはじまって、長い時間をかけてゆっくりと進行するものではないかと思っています。むしろ人間の感覚としては、歴史の視界というものは広くてかつ久しくて、ときとしてあたかも静止しているかのようにすら感じることもあるでしょう。そして、気がついたときには眼前に新しい光景がひろがっている。

 2015年夏、モンゴルへ行きました。遮るもののない草原には音がありませんでした。時間の流れと空間のひろがりだけがそこにはありました。青い空と白い雲、なだらかな丘と緑の草だけがのびやかに広がる無限の天地。小さな島国の日本では感じることのできないような、どこか五感を超えた別世界にいるようでもありました。そしてこのときの感懐が、一連の研究エッセイを構想するためのヒントになりました。

 「ユーラシアは陸伝いの広大無辺の地平である」。

 私は「はしがき」で、まずこの一行を記して筆を起こしました。
 「これから私が記そうとするのは、冷戦終焉後の四半世紀に、このユーラシアの地平で進行している静かな変化についての考察である。私は、海の向こうのユーラシアの変容について、またその静かなダイナミズムの意味とその行方について、ユーラシアの地平にのびやかにひろがる長大な歴史的な時空のなかで考えたいと思う。煎じ詰めれば、それはロシアという国がこれからどうなっていくかを考えるということでもあるだろうし、あるいはまた、中国とロシアの関係のさきゆきにいささかの思いを馳せるということでもあるだろう」。
 そして、こう続けました。「言うまでもなく、それは海の日本で生きる私たちが視界に入れておくべき地政学上の重大な要件でもある」と。

ユーラシア地政学の大転換

 さて、ユーラシアとはなにか。私は北半球の地図を俯瞰しながら、まずユーラシアの範囲を、ロシアをふくむ旧ソ連の国々とそのまわりの領域というぐらいに、おおらかかつ広域的に捉えることにしました。
 世界は大きく動いています。世界を動いている現実として実践的に理解するためには、国や地域の境にとらわれない総合的で広域的なアプローチが必要です。私は、ユーラシアという領域をひとつの面として捉え、広域的なダイナミズム(動態)とその底流でうごめく構造的な変化を実践的に論じたいと考えました。「はしがき」に「動態的ユーラシア試論」と付記したのはそのためです。

 同時にまた、国境のくびきを解き放つことには、長銀総研時代の調査とロシアトヨタ時代の経験を縦横に活かすための舞台設定というねらいもありました。
 私は現場主義を大切にしたいと思っています。私はもともと旧長銀(日本長期信用銀行)傘下の長銀総合研究所で、故竹内宏理事長(享年85歳、代表作『路地裏の経済学』で知られた庶民派エコノミストです)のもとで調査マンとしてのキャリアを積みました。在職中にウクライナの日本大使館で専門調査員として勤務する機会も得ました。そして、長銀の破たんと国有化をきっかけにトヨタ自動車へ転職し、トヨタの仕事を一から学んでロシアへ渡り、全ロシアの販売マーケティングを率いました。モスクワをハブにして、広大なユーラシアを文字どおり飛んでまわったことは貴重な経験になりました。また、本書の連載中には中国へも何度も行きました。
 いかなる調査といえども、自分の足で情報を取り、かつその意味を現場の視点で考えることにまさる方法はありません。課題は常に現場にある。ならば、解決への手がかりもまた現場にあるはずだ。現場主義に徹することは調査研究の基本です。これは私がトヨタで叩き込まれた大切な教えのひとつでもあります。

 他方、過ぎ去った20年をグローバルにふりかえるとき、中国の発展と強大化が最大の変化要因であることに異論の余地はないでしょう。中国は戦後70年を経て、いまや揺るぎもしないグローバル・パワーに変貌しました。私は、この20年の変化の大きさをこれから20年先の将来まで引き延ばすと、世界の構図はいまとは大きく変わるのではないかと考えています。それがくっきりと現れるキャンバスが、他ならぬユーラシアなのだろうと思います。
 2017年秋に中央アジアを訪問したときのこと。韓国の仁川空港からアシアナ航空で6時間半、雪をいただく天山山脈を越えて機体が高度を下げながらカザフスタンのアルマトゥイ市の上空へ近づくと、やがて眼下に白い線が一本、西の地平線へ向かってまっすぐ伸びていました。
 中央ユーラシアの平原に伸びる真新しい一筋の白いハイウェイは、冷戦終焉後のユーラシアを象徴して鮮烈です。近い将来、中国の沿海部からヨーロッパの東部まで総延長8500キロ、ユーラシア大陸の東西が長大な高速ハイウェイでつながります。並行して、いまでは中国の工業都市とヨーロッパの主要都市を結ぶ越境型の直行貨物列車(仕向け地指定のブロック・トレイン)がほとんど毎日のように行き交っています。その運行本数は、2019年には全体で6300本を超えました。そして中国はいま、平原に高速デジタル通信網を敷設しています。

 私たちは、さきのミレニアムの最後の10年にはじまるこの四半世紀を、世界史上の大きな転換点として記憶にとどめるべきかもしれません。
 ふりかえれば20世紀末、ユーラシアの内陸部が、あたかも霧が晴れるようにひらかれました。ソ連の崩壊と積年の中ソ対立の解消によって、内陸ユーラシアの広大な一帯がグローバルにひらかれたのです。霧が晴れるにしたがって視界は一変し、無辺の乾燥地帯が東西にのびやかに広がりました。かたやソ連を継承したロシアは北へ大きく後退し、国家存亡の混沌の渦に沈んでいました。そして、それに代わって東からその空白を埋めていったのが、強大化する中国でした。まさしくユーラシア地政学の大転換と言ってよいでしょう。

「一帯一路」の源流

 ところで、ここ数年、日本では地政学がブームです。私の本の副題も、そんなブームにあやかりたい編集者の意を汲みました。
 けれども、実を言うと、私自身は地政学がそれほど好きではありません。そもそも地政学には、侵略と戦争の戦略を分析するためのツールとして発達してきた一面があるからです。ですから、私はこの本を書くにあたって、ハルフォード・マッキンダーの「ハートランド理論」をはじめ、地政学に関するお馴染みの学説、用語の解説や、それらを援用してものごとを語ることはしないと心に決めていました。
 それはともかく、ではなぜ、いま地政学なのでしょうか? 東西冷戦が終わってイデオロギーの大義が剥げおちた結果、地理や地形、民族や宗教、歴史などといった素の地肌がおもてに現れてきた。それが世界情勢を不安定なものにしている。地政学が注目される背景には、そのような事情がありそうです。

 たとえば、中央アジアと中国の新疆ウイグル自治区の動静もそのひとつです。
 「上海協力機構」(Shanghai Cooperation Organization, 略称SCO)という国際機関をご存知でしょうか。2001年6月に、中国が中心となり、ロシアと中央アジアの4ヵ国(永世中立国のトルクメニスタンを除く)を原加盟国として創設されました。軍事や外交の専門家に訊くと、「ああ、あれですか。中央アジアの国境管理とテロ対策のための機関ですよ」と、軽く捉えられることも多いようですが、実はいま中国が進めているシルクロード経済ベルト構想(いわゆる「一帯一路」イニシアティブの陸上パートです)は、そのSCOの創設、活動とともにはじまったというのが私の見立てです。
 中国は、西の内陸に新疆ウイグル自治区という内なる異国を抱えています。新疆とは「新しい領土」を意味します。古くから西域と呼ばれた地域で、19世紀後半に中国によって併合されました。そこにはウイグル族というイスラム教徒のトルコ人が多く住んでいます。この地域は、民族としては中央アジアと同じトルキスタン(「トルコ人の住む土地」の意)でもあるのです。
 そのため、1991年12月にソ連が崩壊すると、中国は中央アジアとの国境を画定してウイグル民族の分離・独立運動を封じる必要に迫られました。そこで中国が、あらたに中央アジアで独立した国々(トルコ系のカザフスタン、キルギス、ペルシャ系のタジキスタン)と、そのいわば宗主国であるロシアの4ヵ国に呼びかけて、1996年4月に立ち上げたのが首脳サミット「上海ファイブ」でした。
 そして中国は、その後この首脳サミットを「上海協力機構」として常設化し、中央アジア諸国との対話を重ねるとともに、治安の維持とテロ対策にとどまらず、民族や宗教の垣根を越えてさまざまな地域協力について幅ひろく協議するためのプラットフォームに変えていったのです。

 他方、このような試みは、かつて匈奴の劫掠に手を焼いた古代中国の君主たちが、西の内陸に割拠する遊牧諸民族と通じようとした幾多の史実を髣髴させます。中国史は、西域の安定なくして中華の発展はないことを伝えています。中国にとり、西域は長く文化のことなる異郷であり、中華の安寧をおびやかす辺境でした。たとえば、紀元前2世紀の漢の時代、武帝(在位紀元前141年~前87年)は遊牧諸侯と通交を結ぶため、張騫に命じて遠い西域へ遠征させたのでした。
 したがって、そういう観点で言いますと、21世紀の現代における「一帯一路」の源流というべきものは、ソ連崩壊後における新疆ウイグル自治区の統治と、トルコ人が多く住む中央アジアの開発、治安や民生の安定化にあったと思うわけです。ちなみに最近、米中の対立が先鋭化する中で、中国政府によるウイグル人への抑圧が国際社会から厳しく批判されています。けれども、これも考えてみれば、西域の諸侯を臣従させるために中国のながい歴史を通じて幾度となく繰り返されてきたことでもあるのです。
 もっとも、だからと言って少数民族に対する抑圧が許されるわけでは決してありません。私がここで述べたかったのは、現代中国が推進する「一帯一路」の構想はなにも最近になってはじまったことではなく、冷戦終焉後の西域対策として、早くも1990年代後半ぐらいからはじまっていたのだろうということです。

大陸国家の視界

 実際に、中国によるユーラシアにおけるインフラ建設は、まず中央アジアから中国へ原油や天然ガスを輸送するパイプラインが、それぞれ早くも2005年12月と2009年12月に完工し、また東の沿海部から西の内陸のカザフスタン国境までつづく高速ハイウェイが開通したのは2011年で、2019年にはカザフスタン領内のそれがほぼ全線開通しています。
 他方、「中欧班列」と呼ばれる中国‐欧州間の鉄道による越境型の一貫貨物輸送では、2009年8月に中国と、カザフスタンやロシア、ポーランド、ドイツなどの鉄道当局にドイツのシーメンス社が加わって「五国六方会議」が設置されています。そしてその後、新たに合弁企業「愈新欧物流公司」が創設され、これをベースにしてフィージビリティ・スタディを重ね、テスト輸送を繰り返し、経由国の通関手続きを簡素化するなどして、2011年3月に中国の重慶とドイツのデュイスブルクを直行で結ぶ「愈新欧」、重慶‐新疆‐欧州線として実現したのです。
 そう言えば、モスクワ駐在時代のあるとき、ロシア鉄道の幹部から「トヨタはこの会議に出ないのですか」と訊かれたことを思い出します。2008年ごろだったと記憶しています。この頃になっても、日本社会は依然としてバブル崩壊後の「失われた20年」の閉塞感に覆われていました。2008年にはリーマンショックが追い打ちをかけました。海の向こうで進行する静かなダイナミズムについて、日本の認識が遅れたのは無理からぬことではありました。

 否、むしろ私が思うのは、日本は四方を海に囲まれているため、大陸国家の発想が乏しいことです。海洋国家に生きる私たちは、どうしても海を中心に世界を観察しがちです。中国を例にとってみても、上海や深圳、広州など日本から近い、海に面した沿海部を中心にしか見ていないのではないかと思います。
 けれども中国は、なにも東の沿海部だけが中国なのではありません。たしかに近代中国の発展をけん引したのはいわゆる沿海部ですが、それは中国のひとつの顔でしかありません。中国は海に面しながらも、陸の奥行きがいかにも深い。
 たとえば、天山南路のオアシス都市としても名高い新疆のカシュガルは、北京とトルコのアンカラを東西にむすぶ北緯40度のカーブのほぼ中心に位置しています。カシュガルが「ユーラシアのハート」と呼ばれるゆえんです。ちなみに、古代シルクロードはそのカーブに沿って発達しました。そして「一帯一路」は他ならぬ、その中国の構想です。好き嫌いはひとまず脇へ置いて、中国に軸足をおいて大陸の広がりを見据える必要があると私は考えています。
 つまり、「アウェイ」としてではなく「ホーム」として中国を見る。そうすると、大陸からの視界は広大で、天山山脈を越えてはるか西の地平に見えるのが中央アジアとロシア平原です。かつてモンゴルは、アジアの草原から興って陸伝いに東ヨーロッパまで征服しました。モンゴル帝国は、キプチャク‐ハン国の衰退まで250年にわたり、アジアとヨーロッパに跨ってユーラシア大陸に覇を唱えました。

 他方、南に目を向けるとインドです。大英帝国によるインド統治は19世紀半ばにはじまりましたが、それ以前のインドは長い間、北から及んだ陸伝いの流れを引いていました。ムガール帝国(1526年~1858年)もそのひとつです。ムガールとはモンゴルを意味するそうです。
 現代インドは海洋国家と見られていますが、歴史的には大陸国家の系譜にある。それもまた、ユーラシアの地肌のひとつと言えるでしょう。ヒマラヤ山脈に遮られて沙漠の蜃気楼ですら見えないけれども、ユーラシアの変化を観察していくためには、そのような巨視的な洞察が欠かせないのではないでしょうか。

ユーラシアにおける中国

 陝西省の西安(唐の都、長安)で乾陵を訪れました。乾陵は女帝、則天武后(在位690年-705年)の墓です。市内から西へ高速ハイウェイを行くことおよそ2時間、遠くの方にそれらしき山が見えてきました。近づくと、正面に小高い山がそびえ、少し離れてお椀のような小山がふたつ。そのさきには黄河にそそぐ渭水の流れ。それが乾陵でした。
 案内してくれた柯隆さん(東京財団政策研究所主席研究員)によれば、なんと女帝が仰臥する姿をかたどったものだそうな。真ん中の小高い山が頭部で、ふたつの丸い小山は胸のふくらみなのだとか。ご丁寧にも、頂きに小さな突起物らしき影まで見えるではありませんか。そして、彼方の渭水に足をぬらす。私はその気宇壮大なスケールに圧倒されました。そのときの感懐を、第二章「上海協力機構と西域」の一節に「則天武后の宇宙」として書きました。
 乾陵へ登ると、正面の山の入口に左右61体の石像がありました。則天武后は西方の61の諸国から官吏を招いて登用しました。61体の石像が武后の陵を黙して守る。その多くは毀損されて完全ではありませんでしたが、どれも異なる服装のなかに、明らかにペルシャ風やアラビア風と思しきものがいくつかありました。

 ユーラシアにおける中国について、それは「遠い昔にはじまるひとつの長い物語である」と、アメリカの中国史家、故O.ラティモアは記しています(O.ラティモア著『アジアの焦点』)。中国は、最初の統一王朝だった秦の時代から、古代シルクロードで栄えた国、西の内陸へ向かって広がる大陸国家でした。そして、いくつかの長い混乱期をあいだに挟んで漢、唐、清の時代へと過去に3回、西進の大きな波が起こっています。
 第五章「胎動する大陸と海の日本」に、私は次のように記しました。

 「ふりかえれば1991年末のソ連崩壊後、中国はいちはやく内陸ユーラシアの開発にのりだした。-中略- 同時に中国にとり、それは北京から西へはるかに3000キロ以上も遠くはなれ、ふるくから西域と呼ばれてきた新疆ウイグル自治区の安寧と、1980年代の改革開放政策とともに東の沿海部から立ちあがり、いまでは西の内陸部の工業都市へとひろがる巨大な経済の外延的な(もしくは、拡張的と言ってもよいだろう)発展をめざすことと表裏をなしていた。中国経済はいま、18世紀なかばにかがやいた清の乾隆帝の治世以来の歴史的な興隆の途上にある。そして、古代の秦王朝からはじまる2千数百年来の中国の歴史の現在にユーラシアのいまはある」。

 日本は大陸の変容にもっとおおきな注意をはらう必要があると思っています。

ロシアの生きる道

 他方、ユーラシアにおける中国ついて考えることは、北の大国ロシアの未来を問う、ということでもあるでしょう。ロシアにとり、ユーラシアという領域概念は、まさしく国家としての基本スタンスに他なりません。西にヨーロッパ、東にアジアを睨みながら、ユーラシアという大きな地平を北から構想することは、ロシアの強みであるとともに弱みでもあります。国章の「双頭の鷲」が、それを象徴するかのようにクレムリンの空にひるがえります。
 かつて17世紀から20世紀にかけての300年間、奇しくもふたつの帝国がユーラシアに並存していました。北に膨張するロマノフ朝ロシア(1613年~1917年)と、東に衰退する清朝中国(1616年~1911年)。共に17世紀はじめに興って、20世紀はじめに革命によって滅びました。ところが、この二大国の力関係がいまでは完全に逆転しています。この趨勢はこれからながくつづくでしょう。強大化する中国との対比において、ロシアは生きる道を問われています。

 私は、ロシアは中国と争わないだろうと見ています。なぜなら、多くのロシア人たちの思いがどうであれ(私の知人たちも、中国のことが本当は好きではないようです)、彼我の経済力のちがいはもはや競いようがないほど開いていますし(ドル換算のロシアの国内総生産<GDP>は中国のそれの8分の1以下)、それになによりもロシアにとって中国は、経済の屋台骨をなす石油と天然ガスの最重要な買い手なのですから(ロシアは中国への最大の原油輸出国。2019年からは天然ガスの輸出もスタートしました)。また、外交面でも中国は、アメリカの覇権に対抗するうえでなくてはならない盟友なのですから。そして両国は、ユーラシアのイスラムという地政学上の不安を分かち合ってもいます。
 そこで、第五章で次のように結論づけました。

 「かくしてユーラシアの北と東のふたつの大国は、かたやエネルギー資源を中心に経済の相互依存をいっそう深めながら、同時にまた中央ユーラシアの安定とアメリカへの対抗を共通軸にして、潜在的なライバル関係をこえて協調し、相互に補完しあっていくだろう。ロシアは中国と争わない。ロシアの基軸は中国との連携にあると私は考えている」。

 そのうえ最近では、両国の関係はいっそう深化しているようです。米中の覇権対立が鮮明になる中で、中国にとってもロシアを味方にしておくことが重要になったからでしょう。過日、クレムリンの政策とも関わりの深い知人のひとりは、私に次のような見解を披露しました。
 「ロシアと中国の関係は、通常の貿易から石油・ガス、次世代通信、軍事分野での協力へと拡大し、高次化しています。-中略- 中ロ両国は、すでに東アジアにおける共同防衛体制への一歩として共同パトロールを実施しています。今後、両国の軍事協力が東アジアを広くカバーする可能性もあります」。
 彼によれば、2019年夏にロシア軍機が竹島周辺の領空を侵犯した出来事も、その共同パトロールの一環として行われたのだそうです。今後ユーラシアにおける中ロの連携は、中国がロシアを抱き込み、ロシアがそれに乗る形でいっそう深化していくと見ておく必要がありそうです。

大陸からの風と向き合う

 ユーラシアはいま、巨大な中国経済のうねりのなかにあります。そこに見えるのは、ますます強大化する中国と、それに引き寄せられる陸伝いの国々と、かたやゆるやかに衰えゆく北の大国ロシアの姿です。
 ところで、本書を書き終える前に、どうしても見ておきたかったのが南のインドの現実でした。インドは中国の「一帯一路」を支持していません。なぜなら、彼らがパキスタンとのあいだで領有権を争うカシミール高原で、中国がそのパキスタンに協力して経済回廊を建設しようとしているからです。そのうえ、自らも中国とのあいだで国境問題を抱えています。
 けれども、それでいて、かのアジア・インフラ投資銀行(AIIB)には中国に次ぐ第二の出資国として創設時から参画し、国内の遅れたインフラ開発に必要な資金を中国に期待しているのです。AIIBにはインド財務省から副総裁が送り込まれています。まさにインド流のプラグマティズムを見る思いです。そして興味深いことに、中国はいまでは最大の貿易相手国になっているのです。
 2019年2月にデリーを訪問しました。この国はなんと年間1億2000万台を超えるスマートフォンの巨大市場ですが(2018年の日本における総出荷台数は約3500万台)、中国ブランドがそこで占めるシェアは50%を超えていました。そもそもモバイル通信を支える携帯電話の基地局のほとんどが中国企業によって設営されていることも驚きでした。そして2016年8月、かのファーウェイ社(華為技術)は南部の高原都市バンガロールに国外で最大規模のR&Dセンターを開設しました。中国経済の外延的な発展は、いまやインドの13億人市場をも席巻しつつあるようです。

 ユーラシアの重心は、北のロシアから東の中国へゆっくりと移動しています。そして大陸は、中国を回転軸として、いまでは南のインドを巻き込んで大きく旋回しようとしています。ユーラシアにおける中国とロシア、そこにインドの発展という新たな可能性が交錯しつつあること。ユーラシア・ダイナミズムの核心は、まさにこの一点にあると言っても過言ではありません。
 ユーラシアを舞台にした壮大な変化はまだはじまったばかりです。その行方は、パックス・アメリカーナ(アメリカによる平和)の終焉にともなって生じる世界規模のダイナミズムを理解するうえで不可欠な要素になるだろう。私はそう考えています。

 大陸からの風に日本はどう向き合うべきか。私は、日本は陸と海の対立という古典的な世界観に基づく狭隘な考え方を戒めて、アジアと太平洋の開かれた環であらねばならないと思っています。これからの日本は、アメリカとの同盟関係に依拠しながらも、ひろくユーラシアの国々から敬愛される開かれた存在でなければなりません。
 そのためには、中国との互恵の関係をあたためつつ、近隣のアジアの国々だけでなく、インドやロシアなどユーラシアの国々との交流をいっそう活発にし、世代を越えて相互理解を深め、積み重ねていくことが不可欠です。それが、ユーラシア・ダイナミズムが切り開く大きな可能性と向き合うために、海の日本が進むべき道なのだと私は思っています。
 最後に、2016年春先に日本外務省が中央アジア(トルキスタンを除く4ヵ国)で行った世論調査の結果を紹介しましょう。
 喜ばしいのは、中央アジアの人々が遠い日本に寄せる信頼と期待の大きさです。

 Q:「もっとも信頼できる国は次のうちどれですか?(複数回答) 
 A:ロシア61%、日本11%、中国5%。
 Q:重要なパートナーは次の国のうちどれですか?(複数回答)
 A:ロシア75%、中国49%、日本25%。

 日本は信頼できる重要なパートナーとして期待されているのです。調査結果はまた、アメリカやヨーロッパの国々への期待が小さいことも示しています。私たちは、こういう国々をもっと大切にしなければならないと思っています。